工藤平助は鎖国下の日本において、長崎のオランダ人と交友のある蘭学者などから入ってくる帝政ロシアの情報をまとめ『赤蝦夷風説考』を著し、老中田沼意次に建白書として提出、江戸期の海防論の先駆となった人物だ。林子平はこの工藤平助から蘭学の知識、国防論の刺激を受け兄事していたが、『海国兵談』を著わした際、子平に懇願されて平助は序文を書いている。生没年は1734(享保19)~1801年(寛政12年)。
工藤平助は紀州藩医、長井大庵の第三子として生まれた。名は球卿(きゅうけい)、字は元琳(げんりん)、万光(ばんこう)、通称は周庵(しゅうあん)、青年になって平助と称した。只野真葛(ただのまくず)は娘。12歳まで紀州で育ったが、13歳のとき父・長井大庵と親交のあった仙台藩医、工藤丈庵の養子となった。工藤家は代々仙台藩医だった。医術を養父に学び、儒学を服部南郭(なんかく)、青木昆陽に師事した。
平助は1754年(宝暦4年)、父禄300石を継ぎ藩医に列せられ、江戸定詰となった。時代は移っても大過なく藩に仕え、医師としても重視されたが、藩政にも関与するようになり、小姓頭から出入司(仙台藩固有の官職で財務をつかさどる)に進んだ。
平助は医術のみに携わることを好まず、学問を修め、多くの優れた友人と様々なことを論じ合った。中川順庵、野呂元丈、吉雄耕牛、桂川甫周ら蘭学者と交遊、海外の知識を得た。親交のあった蘭医・学者、前野良沢の弟子、大槻玄沢を藩医に推挙し、彼と親族の義を結んだ。平助は玄沢とともに仙台領内の薬物30種を調査研究し、藩政に寄与した。
1883年(天明3年)、平助は老中田沼意次に建白書『赤蝦夷風説考』を提出し、ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた。赤蝦夷とは当時日本側が使っていたロシアの通称。これによって平助は、林子平、本多利明ら江戸期の海防論の先駆となった。
老中田沼意次は蝦夷地経営に関心を寄せており、ロシア人南下の脅威に備える必要性を認識していた。そこで平助は何とか自著を田沼の目に留めようと、田沼の用人、三浦庄司を介して上申。その甲斐あって1784年(天明4年)、勘定奉行松本秀持が田沼に提出した蝦夷地調査に関する伺書に、この『赤蝦夷風説考』が添付された。伺書は『赤蝦夷風説考』を引用しながら、蝦夷地の肥沃な大地、豊富な産物、地理的重要性を強調し、幕府主導による防備・開発を進言している。
それを受けた田沼意次は早速、翌年、幕府主導の下に全蝦夷地沿海への探索隊を派遣するに至って、平助の宿願は結実する。しかし1786年(天明6年)、田沼の失脚により、この探索隊は残念ながら中途で断絶してしまった。
(参考資料)永井路子「葛の葉抄」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」
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